再歩行」で挑む、未知なる景色への足跡
夢は努力で叶えられる。
車椅子トラベラーが自分の足で踏みしめた世界の記憶
18歳の時のバイク事故で頸椎を損傷し、車椅子生活となった三代達也さん。車椅子での単独世界一周という偉業から8年、新たな挑戦のステージに立っていました。それは、自らの意志で「立つ・歩く」という再歩行の成果を世界で試す旅です。 「マチュピチュの階段やウユニ塩湖の地を、自分の足で踏みしめたい」。その純粋な渇望を原動力に、10ヶ月に及ぶ猛烈なリハビリを乗り越えて挑んだ2度目の世界一周。そして旅を通じて確信した「人はいつからでも変わることができる」という想いについて、話を伺いました。

三代 達也(みよ たつや)
事故で頸椎を損傷し車椅子生活に。ハワイへの一人旅を機に海外のバリアフリーの進歩に感銘を受け、2017年に約9ヶ月をかけ23カ国を巡る単独世界一周を達成。現在は沖縄を拠点に、車椅子トラベラーとして講演やツアー監修を行う傍ら、「教育×旅」をテーマに学生への福祉教育にも積極的に関わる。
YouTubeチャンネル https://www.youtube.com/@miyochannel8798
Instagram https://www.instagram.com/wheelchair_traveler_miyo/
※記事の内容はインタビュー当時のものです。
18歳で事故に遭われてから、再び前を向くきっかけとなった出来事を教えてください。
私は18歳の時に事故で頸椎を損傷しました。当時のリハビリは、あくまで「最低限の生活を維持するため」のものでした。医師やリハビリの先生に言われるがまま、淡々とメニューをこなす毎日。そこに自分の意志はなく、何のために体を動かしているのか、その先にどんな希望があるのか、全く見出せませんでした。杖を使って歩くことはできましたが、利便性の高い車椅子の生活を選ぶことにしました。
それから2年間、私の世界は病院とリハビリ施設での生活が中心となりました。気力が湧かない私を変えてくれたのは、リハビリ施設で出会った同じ障害を持った同室の方でした。その方は、時に厳しく、時に温かく、叱咤激励のアドバイスをくれました。「このままでいいのか」「自分にできることがまだあるはずだ」と。
その言葉に背中を押されるようにして、ようやく私は「外の世界」へ目を向ける勇気が湧いてきました。車椅子で外に出始め、初めての海外旅行としてハワイへ行こうと決めた際、地元のショッピングモールの旅行会社では「1人では無理だ」と断られましたが、同じ建物の2階にあったHISの窓口へ行くと、担当の方が「1人でも行けますよ!」と笑顔で迎えてくれました。あの時、私を「一人の旅行者」として対等に扱ってくれた出会いが、今の私の活動に繋がる大きな原動力になっています。
1度目の世界一周を経て、なぜあえて「歩くこと」にフォーカスした過酷なリハビリを再開されたのでしょうか。
1度目の世界一周は、介助者をつけず単独で各地を訪れて、「ここに来られてよかった」という純粋な喜びを感じる旅でした。
それから8年後、大阪にある脊髄損傷者専門トレーニングジム「J-Workout」を訪れる機会があり、J-Workoutのマネージャーの方から、「まだ足は動くのに、なぜ歩かないの?もし歩けるなら何がしたい?」と言われた際に、私の中にそれまでになかった願望が芽生えました。「次は、自分の足で世界を歩けたらどれほど気持ちいいだろうか」と。その気持ちが、一度は諦めた「歩くこと」へと再び向かうきっかけになりました。
そこからの10ヶ月間は、私の人生の中で最も濃密で、過酷なリハビリ期間となりました。月に一度J-Workoutに通い、元々通っていた拠点を置く沖縄のジムでトレーニングを重ね、さらにサボれない環境をつくるため、毎日のトレーニングの様子をSNSで配信しました。
今回の旅は41日間で21回のフライトという非常にハードな行程でした。肉体的な負担やリスクをどう乗り越えましたか。
確かに、移動だけで30時間に及ぶこともあり、身体的な負荷は想像を絶するものでした。車椅子ユーザーにとって最大の敵は「褥瘡(じょくそう)」、つまり床ずれです。健常な方であれば無意識に姿勢を変えますが、感覚が鈍っている私にとって、長時間同じ姿勢で座り続けることは、傷が広がる可能性や感染症のリスクがあります。この恐怖とは、41日間常に隣り合わせでした。
しかし今回は、医療従事者やリハビリのプロフェッショナルたちが「チーム」として同行してくれました。彼らが私のフィジカル面を細かくケアしてくれたおかげで、私は挑戦に集中することができました。また、事務的な面ではHISの存在が大きかったです。トルクメニスタンのような特殊な国のビザ申請や、複雑な航空券の手配、各空港での地上支援の確認など、個人では対応しきれない「旅の土台」をプロの手で整えてもらいました。私が「表現者」として前を向いていられたのは、そうした専門的なバックアップがあったからです。自分の身体と心に向き合い、過酷な行程を完遂できた背景には、確かな知識に基づいた支えがありました。
実際に、目的地で大地を踏みしめた時の感覚はいかがでしたか。
マチュピチュの遺跡、ウユニ塩湖の白い大地、そしてエジプトのピラミッド。目的地にたどり着き、実際に自分の足で立った瞬間、これまでの10ヶ月間のリハビリ、そして事故からの長い葛藤の全てが報われるような感覚になりました。まさに「心躍る」体験でした。「ここで転倒したら大怪我をする」というリスクや恐怖は常にありました。そして16年間歩くリハビリを諦めていた頃の自分には、到底想像もできなかった光景が目の前に広がっていました。その瞬間は、単なる「観光」ではなく、赤ん坊が立ち上がるような新鮮な感覚で、「頑張れ、頑張れ」と心の中で必死に自分を応援していました。
三代さんの活動を通じて、周囲からは「道標となる開拓者」としての期待も寄せられています。そうした期待を、三代さん自身どう受け止めていらっしゃいますか。
そのように評価していただけることは、活動を続ける上でこの上ない誇りであり、大きな心の支えになります。かつて病院やリハビリ施設で過ごしていた際に目的を見失っていた私にとって、「誰かの道標になる」という言葉をいただける日が来るなんて、想像もできなかったことです。
私自身、この「開拓者」という言葉には、自分一人では成し得なかった挑戦を、伴走してくれる方々と共に作り上げてきたという実感がこもっています。周囲からの期待は、決してプレッシャーではありません。むしろ、私が挑戦し続け、そのリアルな苦労や喜びを発信することで、次に続く誰かの不安を一つでも解消できるのであれば、それは私の障害が「価値」に変わる瞬間でもあります。新しい旅の可能性を信じてくれる仲間がいる。その支えがあるからこそ、私は自信を持って、まだ見ぬ景色を求めて歩み続けることができるのだと感じています。

世界を旅する中で、日本のバリアフリー環境について感じたことはありますか。
日本はハード面、つまり設備としてのバリアフリーは世界トップクラスに整っています。主要な駅やショッピングモールなどには、エレベーターやバリアフリートイレがあります。しかし、ソフト面-人々の意識や柔軟な対応力、そして「当事者の視点」という点では、海外から学ぶべきことが多くあります。「私たちのことを、私たち抜きで決めないで(Nothing About Us Without Us)」という言葉を私は大切にしています。宿泊施設や公共交通機関の整備において、当事者が実際にどう感じるか、どう使うかという視点が、計画段階からどれだけ反映されているでしょうか。例えば、ホテルの備品の高さ一つとっても、実際に車椅子でアプローチしてみないと分からない細かな不便さがまだ残っているのが現状です。
その一方で、海外では、ハードが整っていなくても人の温かさに救われる場面がたくさんありました。例えば、南米などで足場が悪く、進めなくなってしまった時、周りにいた人たちが総出で持ち上げて助けてくれました。そのときに「慈しむ心」を実感しました。こうした皆で助け合おうという気持ちが自然に受け継がれている国は、世界各地にありました。日本も、設備だけでなく、そうした心がより根付く国になってくれたらという思いがあります。
私が旅を通じてリアルな苦労や喜びを発信し続けているのは、そうした願いも含まれています。
今後の活動のビジョンと、次世代へのメッセージをお願いします。
今回の旅を経て、今後は特に「教育」の分野に力を入れていきたいという想いが強くなりました。
小中学生への講演を通じて、例えば「道路は水捌けをよくするために、真ん中が少し高くなっているけれど、車椅子だと端に寄ってしまい漕ぐのが大変」といった、日常の何気ない構造の話をすることがあります。そうした気づきを与えることはもちろん、リハビリテーションを学ぶ学生さんたちにも積極的にメッセージを届けていきたいと思っています。
特に未来のセラピストである学生さんたちには、将来「患者さんが人生を楽しめるような声かけができる人になってほしい」と伝えていきたいです。かつての私がそうであったように、事故や病気でリハビリに励んでいる人は、ただ「機能回復」を求めているのではありません。「そのリハビリの先にどんな楽しいことが待っているか」という目的を必要としているのです。
今回の旅で得た学びは、「きっかけがあれば、人はいつからでも変われる」ということでした。
未来の希望を与えられるセラピストを育て、本来チャンスを得られるはずだった人たちが、障害や病気などの理由で何かを諦めなくて済む社会の実現に貢献できたらと思っています。
